光、それはどなたの中においても燦然と美しく輝く、神様の「分け御魂(わけみたま)」 としての光

わたくしは、人間ひとりひとりが本当は素晴らしい神の子である、という信仰のもと、11歳の夏から今日まで、ずっと生きてまいりました。
わたくしがどんなにニューソート系のキリスト教のお勉強を積んでも、決して洗礼を受けようとしないのは、キリスト教においては必ず「原罪(げんざい)」という概念がついてまわるからです。
わたくしがどんなにジョエル師を心から敬愛していると言えど、「人間は罪の子などではない、神の子である」という信念だけは絶対に絶対に譲れない以上、わたくしが洗礼を受けることなど、あり得ません。
それほどまでに、わたくしにとってのこの信念、信仰は揺るがぬものでございまして、これがあるからこそ、わたくしはスピリチュアリストとして、またサイキックとして存在し得るのだと自負しております。

・・・

わたくし達ひとりびとりの命というのは、例えて言うなら、神様と言う大きな炎から分けていただいた、ひとつひとつの松明(たいまつ)のようなものであって、だからこそ、わたくし達人間は、神様から命の御光(みひかり)を分けていただいた、言わば、「分け御魂(わけみたま)」なのですね。
ですから、わたくし達の中には、必ず、内在神、内なる神がいらしてくださるのであり、そうした内なる神性と共に生きるところにこそ、最高の人生が展開されてゆくのであり、無上の生
きる喜びがあるのです。

・・・

この世はとかく醜いところで、争いも多く、一体こんな世の中のどこに希望があるのか? と思わざるを得ないことも多々ございます。
ほんっとうにドウデモイイ芸能ニュースを延々延々繰り返している、お昼のテレビ番組、あるいは、一度ターゲットを見つけたら、ここぞ! とばかり散々叩きまくるマスコミ、そしてネットに連なる一部の方々。
勿論、全てが全て、そうだとは言いませんが、でも、随分とこの国も生きづらい国になってしまいました。
国際情勢を見回しても、近いところでは相変わらず中国・韓国・北朝鮮との問題が存在し、遠くヨーロッパにおいては流入し続ける難民達の問題があります。
かつては「世界の警察」を自負していたアメリカの覇権ももはや過去のもの、新興国といわれる国々だってまだまだ混沌としていて、中東は相変わらず何やらきな臭い。
あんなに巨大な中国だって、いつ崩壊するかわからない。
あの国は、貧富の差もものすごいものがあるらしいですしね。
そんなこんなで、どこにこの世の平安などあるの? と聞かれても、うーん、と返事に困ってしまうようなこの「うつし世」ではございますが、こうしたカオス極まりない世界に生きているのが、本来は神の子であるはずのわたくし達人間、なのですよね。
では、本来神の子であるはずの人間がどうしてこうも醜い所業を繰り返し続ける、この世というのは、いったいどういった意味で存在しているのでしょうか?

・・・

話は突然変わりますが、わたくしは霊的な厳然たる事実を申しますなら、魂は決して平等ではないと考えております。
霊魂としての存在である人間を見たとき、そのもともとの魂のルーツはそれこそ千差万別であり、また魂年齢とでも言うべき、その魂自身の霊的な歩みはそれこそ個々にものすごい開きがあって当然で、中には仙人のような方もいらっしゃれば、生まれたばかりの誠に幼い魂さんもいらっしゃるわけです。
そうした様々な、本当にヴァラエティ豊かな魂がより集まって共同生活を送っているのが、この宇宙船地球号、なのですね。

それに、そのひとつひとつの魂にはまたそれぞれに様々なカルマがあって、そのカルマはそれこそさらにヴァラエティに富んでいるわけです。
ひとつの魂の中にもいくつものカルマがあって、それをこの世で存在する人数でかけてみると、もうそれはそれはものすごいカルマ=人生で学ぶべきストーリーが、この地球にはわんさか! と存在していることになるのですよね。
だからですね、言わば、まぁ、この地球上は混沌としているのが当たり前であり、そうした状況の中で、様々なストーリーが繰り広げられてゆくわけです。

・・・

わたくし達ひとりびとりは、自らに与えられた運命を歩むことによって、様々な感情を経験し、人間としての器を広く大きく豊かにし、愛とはなんぞや? ということを学んで、やがてはこの世を去ってゆきます。
どんな人生であっても共通していること、それは愛について学ぶ、ということです。
たとえ愛からかけ離れたような人生を生きているひとであっても、それでも、そのひとの魂が今回の人生において最も学ぶべきテーマは必ず、愛、であるはず。
愛を学ぶためにこそ、この世に遣わされ、この宇宙船地球号の切符を手に入れるのですから。
そこだけはどんな人生であっても絶対変わらないはず、なんです。

そうなると、どんなに暗く重い場所においても、愛を志向してゆかざるを得ないのですよね。
もちろん、おひとによって、その求める愛の形は様々でしょう。
ある方にとっては金銀財宝豊かに億万長者になること=愛のあらわれ、かもしれないし、あるいは、マザー・テレサのようにただただ我が身を神様に捧げて奉仕活動をなさること=愛のあらわれ、となさる方だっていらっしゃる。
でも、スピリチュアルな世界的に物事を見るなら、それぞれがそれぞれに正しいのであり、そのひとが生きる人生のストーリーは絶対的なまでに自己責任、なのですね。

つまりは、生きたようにしか死ねない。
わたくしは「死後に救われるから現世で耐えろ」という考え方には賛同いたしかねますが、とにかく、ひとは皆、生きたようにしか、死ねないんです。
そして、当然、死んだ後の世界も、この世で生きた自分にふさわしい世界となってくるのです。
だからこそ、そういう意味では、ものすごーく霊的に見たら、この世というのは、とってもよく出来ているのですよ。
おひとに迷惑ばかりかけて生きるような方はそれにふさわしい死に方をするし、死後の世界もそれ相応のものです。
だからといって、正直真面目に清貧に、ひたすら奉仕の人生を歩め、というわけではありません。
でもね、とにかく、本当にこの宇宙(あまねく広がる霊的世界)というのは本当にうまく出来ていて、そこらへんは霊的に見たら、とっても平等、なんですよ。

・・・

だからこそ、この世でいかに生きるか、というのが大事になってくるんですよね。
たとえ聖人のように生きられなくとも、可能な範囲内でいいから、愛を大事にして、愛ある人生を送ろうとするなら、それ相応に人生は花開いてゆくはず。
そうしたときに大事になってくるのが、自分の中の光をどれだけ信じられるか、ということ、なんです。
つまり、自らの内にいらしてくださる神様を信じ、神様と共に生きるなら、きっとそれなりによい人生になってゆくはず。
たとえこの世で思うように、100%夢が叶えられなくとも、それでもそれなりに悔いなき人生になってゆくはず。
その反対に、己の内なる光など抹殺し、ただ己の欲望のままにひたすら自分勝手、ひとをも平気で傷つけるような人生を送り続けるなら、やがて内なる光は消え去り、心の中はひたすら暗い影でおおい尽くされ、誠につらい死に方をせねばならなくなるでしょう。
たとえ、死の瞬間、その「責め」を逃れたとしても、その後延々続く霊的世界の旅路においては、地獄ではありませんが、それ相応の歩みをせざるを得ない。
そこらへんはとってもよく出来ているのが霊的な世界の掟、というものなのです。

ですから、この世においては、ひととして生きることを楽しみながらも、少しでも光を求め、光と共に歩んでゆくことが大切、なのですね。
完璧な聖人にはなれずとも、周囲の方々と持ちつ持たれつ、時に頼り、時に甘えてもいい、それでも出来るだけプロアクティブに、世の中を少しでもよくしようと生きるところに天の無限供給がもたらされるのであり、自らの魂もぐんぐん成長し続けてゆくことになるのです。
自らの魂の本質、神の子さんとして光り輝いて生きようとすればするほど、貴女の霊格はどんどん向上して、自然とこのうつし世においても、そして、さらに来世でも、よきことがどんどん増えてゆくのですね。

・・・

人生は一度きり。
今までやってしまったことはもう取り返しがつきません。
でも、今日は人生でいちばん新しい日。
これからこの世を去るまでの日々はまだ未完成、貴女次第、これから、です。
一度きりの人生、どこまで美しく命の炎を燃やして生きるかは貴方ご自身にかかっています。
素晴らしい命の御光を燦然と輝かせて、貴女という存在を通して、天のよきものをこの世に届けてゆくような、そんな生き方を心がけるなら、必ず、貴女はますますよきものに満たされ、ひとびとから愛され、慕われ、心豊かに生きてゆかれることでしょう。

どんなときも決して消えることのない、内なる光を見つめ続けて、美しくたおやかに、どこまでも自らの資質を高めて行くことを忘れずに、生きてまいりましょうね。
貴女ならきっと出来ます。

さぁ、今日も微笑みと共に、天の愛のエネルギーをこの世に届けるひとであってください。
貴女にいつも神様の祝福とご加護とお導きがありますように。

イエスさまの御名において。
アーメン。
アーメン。

広告