「大いなるご存在・ファースト」

2016年が始まって、今日で半月。

何やらまだ寝ぼけ眼( まなこ)で、ぼんやりと世の中を見ているようなわたくしではございますが、実は、今年始まって早々、とっても素敵なミラクルが起こりました。

それはね、もう、本当に……突然の、まさに「思いがけないこと」でございましたので、自分自身、とってもびっくりいたしまして。

と同時に、そうした奇跡を与えてくださったことを神様に心から感謝いたしました。

と、そんなふうに、2016年、幸先のいいスタートを切りつつあります。

・・・

何かを願っていてね、ひょんなことから棚ぼた式に、思ってもない幸運にあずかるようなとき、ひとはそれを「ラッキー」と呼ぶのでしょうし、今風に言うなら「引き寄せがうまくいった!」などと言うのでしょう。

でも、常日頃、「引き寄せ」という表現に何かこう納得出来ないものを感じておりますわたくし。

では、以下、こうした現象をどういった視点から理解してゆけばよいのか、理解すべきなのか、について、考えてみたいと思います。

・・・

確かにね、霊的な世界に日頃から慣れ親しみ、そうしたところで提唱される様々なテクニック等に触れていらっしゃる方にとりましては、今回のわたくしに起こったような見事なミラクルは、それこそ「引き寄せ」 の成功体験のひとつとして数えられるのでしょう。

でも、わたくしは、本当はね、それは自らが「引き寄せ」たのではなく、神様がわたくしの願いをお聞き入れくださったのだと考えております。

そう、つまりね、(その出来事、素晴らしい偶然を)自分 “が” 引き寄せたのではなく、神様 “が” わたくしの願いをお聞き入れくださり、そうした素晴らしいチャンスを与えてくださった、そう考えた方が、ずっと自然だとわたくしは思うのです。

・・・

古き昔より、人類は、少しでも生活をよくしよう、便利にしようとあらゆる努力を重ね続けてまいりました。

その結果が、現在わたくし達が享受しているこの便利な社会なのでしょうし、現代の社会の仕組み、なのだと思います。

でも、それは、ものすごーく沢山の先人達の努力の賜物ですよね。

例えば、我が国、日本国においても、いくつかの大きな戦争をも経て、今の形での国が存在している。

近代以後で考えるなら、幕末、明治、大正、昭和、そして平成と、近代から現代に至るまでの日本を生きてきた数限りない方々の尊い人生があったから、だから、今、その子孫として、わたくし達はこの国で生きていられるわけです。

ですからね、何が言いたいかと言うと、ひとが成せる力には、ものすごいものがあると思うのですよ。

特に日本人は勤勉と言われますからね、だから、あんな戦後の焼け野原から、まれに見る経済成長を果たし、今日の繁栄を築いた。
(現在はかなり斜陽化しつつありますが) 

これは、本当に素晴らしいことだと思います。

・・・

けれど、そうした素晴らしい能力も持つ人間ではあるけれど、どうしても人智では及ばない部分があるのも事実です。

というより、わたくし達は皆等しく全て、大いなるご存在に生かされている者です。

つまり、この世に送られてくるのも、この世を去るのも(まぁ、この世を去ることにおいては、自らで決められる部分も確かにあるにはあるのですが)、基本、まぁ、殆どの方がそれがいつなのかはわからないわけですよね?

生まれたときにいたっては、まだ赤ん坊で、そんなことを考えて「哲学する」わけでもないですし。

それだけでなく、自らの人生に起こることって、そもそも、コントロール出来ないことも多い。

っていうか、そっちのほうが多いのではないかしら? 

とにかく、どんなに人間が素晴らしい存在とは言え、「引き寄せの法則」とかを使って、自分で自分の人生をコントロールしようとするということは、大いなるご存在への軽視に繋がらないかしら? などと、どうしても古い頭の人間であるわたくしなどは危惧してしまうのです。

・・・

もっともね、何かを願い、その実現に向けて、スピリチュアルな世界のテクニックを使うことはアリ、だと思いますよ。

でも、この国の今の「スピリチュアルという文化」(=決して、スピリチュアリティとは同義ではない)においては、あまりにもそこに「わたし “が” 」という雰囲気が蔓延り(はびこり)過ぎている。

少なくとも、わたくしがご尊敬申し上げております海外の先生が書かれたスピリチュアリティのご本においては、まず神の思し召しがあって、初めてことは成り立つ、といったことが前提に書かれております。

・・・

具体的に言うならね、もし、何らかの願いごとがあったとして、そういう場合においては、自ら “が” ことを成そうとするのではなく、あくまでも神様、大いなるご存在に、一旦自らの思いをお預けして、あとはよきにお取り計らいください、といった感じなんですよね。

あくまでも人間としての分を弁えてですね、謙虚になって、その上で、もし、自らの願いが神様の御心に適うようでしたら、叶えてやってください、というスタンス。

なんでもかんでも「わたし “が” ~!」じゃないんですよ。

そう、あくまでも、その願いを叶えるかどうかについて判断されるのは神様。

そこのところが、今の日本のスピリチュアルな世界においては、足りなさ過ぎるんじゃないかなぁ? そうわたくしは思います。

・・・

じゃあね、どうしてそういうことが言えるか、ということについて、何か具体的にひとつ例を挙げるなら――、

例えばね、お若いお嬢さん方においては、人生において恋愛が占める割合って非常に大きいですよね?

特に10代の頃なんかは、もう、自分そっちのけでとにかく彼が生活の全てになってしまいがちで、彼に好かれたい、お付き合いしたい、少しでも長く一緒に居たい! となってしまう。

わたくしも一応曲がりなりにも10代のきゃぴきゃぴした時代がございましたので、そうなってしまうのはごくごく自然なことなのだとは思いますけれど、

でも、そうやって恋が生活の大部分を占めるような若かりし頃、とにかく彼のことだけで胸がいっぱいになって、ただひたすらに彼と両想いになりたい!! だなんて願っても、

大人の冷静な視点から見れば、「いやぁ~~、その彼とはお付き合いしても、うまくいくとは思えないよ~ (^^; 」ってこともままある。

すなわち、そういう場合、その想いは成就しないほうが、本人さんのためってこと、なんですよね。

でも、まだまだお若く、とにかく純粋に「好き!好き!」で、もう生活が全てそっちの方向に(=彼に向かって)走り出してゆかざるを得ないような若いお嬢さん方にとっては、

そうしたアドヴァイスは「うざい」だけで、逆に「どうしてわたしの想いをわかってくれないの!?」と逆ギレさえされかねない。

わたくし達人間が何かを願うことにおいてもね、ことと場合によっては、程度の差こそあれ、こうした若いお嬢さんの恋の願いとですね、まぁ、そう変わらない部分があるんじゃないかなぁ? とわたくしはついつい思ってしまうわけなのです。

・・・

つまり、わたくし達人間が何かを願うとき、それはわたくし達人間レヴェルのちっぽけな器において、生じることに過ぎないんですよね。

そうしたことの中には、神様の視点からご覧になられたら、「いやぁ、それはちょっと違うんじゃないの?」ってことも多々あると思うんです。

つい先日もアメリカでそら恐ろしい金額の宝くじに当たったひとの話がニュースで流れていましたが、わたくしはその話題を聞いて、そりゃぁ恐ろしくなりました。

だってね、それこそ美輪明宏さんがおっしゃるところの「正負の法則」から物事を考えるなら、あんな莫大な金額、急に自らのもとにやって来たら、もう絶対人生狂いますよ!! としか思えてならないのです。

何かを得るということは、必ず、その分、何らかの対価を支払うことになるのですから。

勿論ね、その「対価を支払う」こと自体が何か喜ばしい形で出来たり、あるいは、それまで本当に沢山の「徳積み」をやってきて、その結果、今回の大金が転がり込んで来たのなら、突然目の前に現れた莫大なプラスのエネルギーとのバランスもうまくとれることでしょう。

でも、そうじゃない場合、かえって、宝くじに当たる以前よりも、人生が悪くなることが殆ど、です。

それだけの莫大なプラスのエネルギーがやってきたら、いかにそのエネルギーと自らの抱えているマイナスのそれとのバランスをうまくとるかが大事。

でも、悲しいかな、そのバランスを上手くとれないひとのほうが殆どなのが、人間の世の常なのです。

・・・

勿論ね、例えば、自らが経営する会社の資金が焦げつきそうで、どうしても今、お金が必要! だとか、何らかの公のために(例えば、貧しい地域にある診療所がハリケーンで甚大な被害を負ってしまったとか)今本当にお金が必要で、クラウドファンディングで資金を集めているのだけれど、なかなかうまくいかなくって、とか、そういう状況なら、そうした突然降って湧いたような宝くじの当選は誠に喜ばしいことだと思いますよ。

でも、身の丈を越えたプラスのものは、恐ろしい形でマイナスに早変わりしかねないのです。

そうならないためには、身の丈を越えたプラスのものは、おひとにお福分けさせていただくこと。

よく似た例として、いただいたお土産のお菓子を独り占めして、皆に隠れて、こっそり一気に食べようとするなら、おなかを壊しかねないのと一緒のことなんです。

お福分けの形としては、つまり、世の中の慈善団体に少しずつ寄付するとか、子孫のために信託財産として残す、など。

そうした形で、必ず、半分は世の中や、自分以外の存在に還元せねばなりません。

そうでないと、宝くじで得た大金など、あっという間に不幸の源になってしまいます。

・・・

そういう意味においても、わたくし達人間は、身の丈にあった幸せを享受していったほうが平穏無事な人生と言えるでしょう。

いえ、勿論ね、昔でいうところの立身出世を願い、ソーシャルクライマーになったって全然構わないのですよ。

わたくしは、むしろそうした生き方のほうが断然好きですしね。
(昔から、そういう話にはとにかく血が騒ぐ(笑)) 

でも、それなら、尚一層のこと己に厳しくならないといけないし、何よりもものすごい努力が必要になってくるわけです。

棚ぼたを願いながらも、その一方で自分で出来うる限りのことをする。

そして、与えられた恵みに日々感謝し、その一部は必ず世の中に還元する。

そうでないと、本当の意味での立身出世も叶いませんし、たとえ叶ったのだとしても、晩年はくらいものになることでしょう。

・・・

とにかく――、

何かをこいねがい、求めてゆくのだとしても、

結局のところは自らの努力が必要なのであり、

また、わたくし達はある程度自らの人生をハンドル出来るけれども、

究極の、というか、最後のところは神様、つまりは大いなるご存在に生かされているのであり。

たかが人間が出来ることなど知れている。

つまり、己の(霊的な意味における)分を弁えなければならないのです。

ですから、たとえ、何かを願い、「引き寄せ」を意図するのだとしても、

必要以上に結果にとらわれることなく、

あとは大いなるご存在、神様にお委ねすることが非常に大切なのですね。

わたくしの願いが神様の御心に適うのでしたら、然るべきときに然るべき形で叶えてやってください、とお祈りすること。

そこにこそ、本当の意味での幸福と天の祝福が訪れる、とわたくしは信じるものです。

・・・

どんなに人間が霊的な学びを深め、研鑽を積み、徳を積んだのだとしても、

そして、たとえ、死後、聖人に祭り上げられたのだとしても、

やはり、ひとはどこまでもひとであり、神ではないとわたくしは考えます。

どんなに素晴らしい人間でも、必ず限界があるし、不完全であることは否めません。

そう思うとき、大いなるご存在に生かされているのだということ、そして、

自らはこの世で生かされているちっぽけな存在に過ぎないのだという認識、

(矛盾するようですが、でも、その一方で、

自らを素晴らしい神の子であると考えてゆかなければならないのですけれどもね)

そしてそこから生じる感謝の念と謙虚さだけは決して忘れてはなりません。

そこのところがしっかりと自らの中で根底にないと、

叶うはずのものも叶わなくなってしまうか、

あるいは、たとえ、何らかの形で叶ったのだとしても、その後の幸福に繋がってゆくかは疑問です。

・・・

とにかく、何事においても、「わたし・ファースト」ではなく、

「大いなるご存在(=神様)・ファースト」で。

生かされているという究極の御恵みに感謝し、

そこから生じるところの謙虚さと共に生きるとき、

本当の意味で、わたくし達人間と言う存在は「生かされてくる(=活かされる)」のです。

どうぞ、そのこところをお忘れにならないでくださいね。

全てがよきに流れますように。

愛をこめて。

God bless you!

広告