Lord, I believe in You… ~わたくしなりの信仰生活~

いろいろとここに来て様々に波が起こりつつあります。

何度も書いておりますが、今年はサイキックに目覚めて丁度10年目。

これまでの日々、最初の3年間はそれなりに「順調」でしたが、2009年の暮れより、生まれて初めての本格的なひきこもり生活を「やらかしてしまい」、以後、わたくしの人生はすっかり暗転してしまいまして。

ここまで、ただ厳しい現実に耐えるのに精一杯で、それ以上頑張れる力もなく。

ただただ、ほそーい希望の糸を必死に繋ぎながら、なんとかここまでやってまいりました。

いただいたご縁、無駄にしてしまったご縁、もう途切れてしまったご縁も多いけれど、今、それなりに、お親しくさせていただける方がいらっしゃって、かつてのひどい人間不信も漸く癒されつつあります。

おひとからご覧になったら、「ここに至るまでの、そんなにも長い年月、一体、貴女は何をしてきたの?」と思われる向きもおありなのでしょうが、いやいや、それはですねぇ、それなりの事情がございましてですね。

わたくしとしましては、もう、必死に、それこそ地を這うような思いで、ここまでひとりで頑張ってきたつもりなんです。

そのことについては、たとえおひとがどのようにおっしゃろうが、わたくしにはそれなりの言い分、と申しますか、自分なりには必死で頑張ってきたことを裏づけるだけの自信があります。

だって、ほんと、ここに来るまで、どれほどの痛みに耐えてきたことか。

それだけは、神様とわたくし以外、本当のところを知るひとは居ないのですからね。

このことについてだけは、わたくしは自分なりの言い分がございます。

・・・

とは言え、今もしぶとくこの道をあきらめずにおりますわたくしが、そろそろ次のステップに行かなければならないことは、これまでもここに何度も書いてまいりましたとおり、そのとおりなのでございます。

そうしたこともあり、やっと今、様々に新たな取り組みを始めつつあるのですが、今、わたくしが改めて、こうした自らの人生経験を踏まえ、皆様に何をお伝え出来るかというと、それはやはり、どんな状況になっても神様を信じる、ということです。

・・・

わたくしは幼い頃から自然と霊的世界との関わりをいただくようになりまして、キリスト教的なものの考え方にも、それなりに親しんでまいりました。

今から6年前の1月からは、テキサス州ヒューストンの、全米一のメガ・チャーチ、レイクウッド・チャーチのジョエル師の御教えをほとんど毎週欠かさずお勉強させていただいてまいりました。

そう、これも、もうまる6年にもなるんですよね。

先日も久しぶりにまとめて、ジョエル師の動画を拝見していたのですが、もう感動で涙が止まらなく。

本当に、彼は自己啓発の大家としても、素晴らしいものをお持ちだとつくづく感じた次第です。

・・・

そんなふうに、キリスト教的な文化に幼い頃からそれなりに親しみ、大学時代は実際教会に通ってみたりしたものの、でも、わたくしはやっぱりどうしても、クリスチャンにはなれないんですよね。

ま、今のわたくしの生き方は、自分なりのイエス様への信仰のもとにありますから、そういう意味ではクリスチャンなのかもしれませんが。

実際、あるクリスチャンの方に「貴女も立派なクリスチャンよ」っておっしゃっていただいたこともございましたし。

イエス様へのご信仰のもと、地上天国実現のため、神様のご計画にそって与えられた我が道を懸命に歩んでおります、という点においては、そうなのかもしれない。

でも、わたくしは、やはり、厳密に言うと、クリスチャンではないのです。
と言うか、なれないのです。

それは、わたくしには、どうしても、原罪という概念が理解出来ないから。

理解出来ないというのは正しくない表現かしら、

とにかく、どうしてもそれだけは魂レヴェルから賛同出来ないから。

わたくしにとっては、無原罪の神の子というのは、イエス様だけでなく、人間皆そうだ、としか、どうしても思えないのです。

だから、たまに御(ご)ミサ(これはカトリックですね)や、プロテスタント教会の礼拝に参列させていただいても、どうしても罪についてのお話だけは、腑に落ちない。

これは、わたくしが大学時代、その後牧師さんとなられた友人と教会に一時期通いながらも、結局洗礼を受けようとしなかった最大の理由です。

わたくしにとってのスピリチュアリティの根本にあるのは、やはり、どうしても、小学6年生の夏に出逢った、宗教法人生長の家の御教えである、「人間は神の子である」という考え方、なのですね。

まぁ、そうは申しましても、わたくしも生長の家の御教えを詳しく学んだわけではありませんし、現在の生長の家の御教えと、わたくしが出逢った頃の御教えは少し変わっているところもあるとお聞きしておりますし、今となっては、その「人間は神の子である」という谷口雅春先生の御言葉は、かなりわたくし独自の解釈のうちに成り立ってしまっているのかもしれません。

でもね、ジョエル師もしょっちゅう礼拝中に「わたし達はこの世で最も高きところにいらっしゃる神の子である」といった意味のことをおっしゃいますが、それはあくまでも罪を悔い改めて、洗礼を受けてからの話、なんですよね。

わたくしは、そこだけはどうしても解せないんです。

「わたし達人間が罪の子? ああ、ハイ、確かに、わたくしも煩悩だらけ、罪だらけですけれどね (-_-;) 」などとは思うのの、どうしても人間には原罪があるという概念、考え方そのものを受けつけられないのですよ。

どうしてもそれだけは絶対に、絶対に、無理。

だから、やはり、わたくしは世間でいうところのクリスチャンにはなれないし、クリスチャンではないのです。

・・・

では、わたくしの信仰とは何なのか? というと、まぁ、ざっくり言うと、北スコットランドにある霊的な共同体、フィンドホーンの創設者のおひとり、アイリーン・キャディ女史が持っておられたご信仰や、アメリカの偉大なるヒーラーであり、現代アメリカにおけるスピリチュアリティの大家と言っても過言ではない、ルイーズ・L・ヘイ女史がおっしゃるようなところのこと、なのです。

まぁ、お詳しい方には「『ア・コース・イン・ミラクルズ』に代表されるような内容のスピリチュアリティに基づいて生きております」とでも言えば、おわかりいただけるかしら? 

では、そのスピリチュアリティがどのようなものであるかというと、それは、自らの内にこそ神が居るという考えが根本となっているものでして、そこには原罪がどうのこうの、という概念はない、と、わたくしは理解いたしております。

っていうかね、原罪という概念について、わたくしは、そんなに「罪、罪、罪、だなんて言って、そこに本当に救いはあるの?」だなんて、どうしても思ってしまうのです。

確かに、イエス様は人類の罪を背負って、わたくし達の身代わりになって死んでくださったのだろう、そのことについて、共感は出来るけれど、でも、そのために全人類、皆が皆、その原罪というものを「悔い改める」ことによって救われるとは、正直、到底思えないのですよ。わたくし的には。どうしても。

だから、どんなにジョエル師を敬愛し、ご尊敬申し上げていても、どうしても、「我が罪をお許しください」というお祈りだけは、ただ形式的に口で諳(そらん)じるだけになってしまいます。

だって、本当はそう思っていないのだから。

だから、やはり、わたくしはクリスチャンには絶対なれないのですね。

どうしてもそこだけは譲れませんから。

・・・

でも、救い主としてのイエス様、おそらく生きていらっしゃった当時は、それこそスーパーヒーローだったであろうイエス様のご存在の素晴らしさについては、とてもよくわかっているつもりです。

確か、以前、何らかの本、あるいは、ウェブでたまたま読んだ情報によれば、当時のイエス様は、例えて言うなら、新興宗教のカリスマリーダー的な存在でいらっしゃって、で、たまたま若くしてお亡くなりになったがゆえに、神の子として祭り上げられ、以下、現在に続く……といったような説があるのだそうです。

新訳聖書も、イエス様が直接書かれたのではなく、そのお弟子さんたちが書かれたものだそうじゃないですか? 

だから、実は、イエス様ご本人は、ご自分がこんなにも世界中に広く影響を及ぼすような存在になられることは、予想だにしなかったのではないか? という、ある意味、週刊紙のゴシップ記事のようなかるーいノリの説(?)があるのですね(^^;

でも、わたくしは、キリスト教の救い主としてのイエス様、というより、いわゆる現代スピリチュアル界からみたイエス様は、やはりものすごい御方であり、マスター的なご存在であって
、やはり、彼のご存在は今もなお、宇宙全体に大きな影響を与えているのではないか? そう感じております。

(こういった話題になってくると、だんだんメルヘンチックと申しますか、ファンタジーと申しますか、あまりにも「キリスト教でにおけるイエス様像」からは非常にかけ離れてしまうので、「それは悪魔のささやきなんじゃないの?」とか「何やら、非常に怪しい、信じられない!」といった感覚をお持ちになられる方もいらっしゃるのではないかと思いますが (^^; )

・・・

もうね、こんなふうに語り始めると、正統的なクリスチャンの方からは、お叱りを受けそうなのですが(^_^;)、

とにかくね、スピリチュアルな世界的に見ても、イエス様はやはり霊的なヒーローでいらっしゃってですね、とても素晴らしい御方なのですね。

わたくしは、それは聖母マリア様も同じだと思っております。

この宇宙に対して、非常に大きな影響力を持っていらっしゃる、霊的なマスターのおひとりがイエス様であり、聖母マリア様なのではないか? と。

そういう意味でのイエス様への信仰を持っているのが、わたくしの正しい姿、なのだと思います。

そんなだから、神道の神様も、仏教の仏様も、同じように手をあわせることが出来る。

わたくしにとっての霊的学びの世界においては、そういうことが可能なのですね。

(いわゆる現代スピリチュアリティに親しんでいらっしゃる方におかれましては、こうした感覚をお持ちの方が多いのではないか? と思います)

・・・

でも、やっぱり、今のわたくしにとって、いちばんにご信頼申し上げ、手を合わせることになるのは、イエス様に他ならないなぁ、そう思います。

もともと、現在の道へと導いてくださったのは、聖母マリア様、なのですけれどもね。

だけど、いろいろあって、今はやっぱりイエス様がいちばん。

だから、ジョエル師がおっしゃるところのことも、原罪の概念を除けば、喜ばしく拝聴し、すーっと胸に響いてくるのです。

・・・

わたくしは、スピリチュアルなマスターのおひとりとしてのイエス様を見た場合でも、イエス様は本当に愛に満ち溢れた素晴らしい御方なのだと感じております。

今まで、本当に何度もイエス様や聖母マリアさまに助けていただいてまいりました。

その他には、弁財天様や、最近では阿弥陀如来様にもご縁をいただいております。

そういう意味では、現代のスピリチュアルな世界って、ほんとなんでもあり、なんですよね (^-^;

・・・

現代的なスピリチュアルな世界にご縁のない方からご覧になったら、宗教をごちゃまぜにして、誠にけしからん! というお話になるのでしょうが、

天使学にお詳しいドリーン・ヴァーチュー博士なんかも、聖なる世界の聖なる方々については、スピリチュアルな世界のマスター等といった位置付けでお話しになられます。

彼女はいくつもオラクルカードを作っていらっしゃいますが、それこそ、洋の東西を問わず、様々な聖なる方々がいっぱい出ていらっしゃるのですよ。

それこそ、ギリシャ神話からヒンズーの神々まで。

まぁ、そのヴァラエティに富んだことと言ったら! 

そういう意味では、現代のスピリチュアリティの世界、いいとこどりの何でもあり? みたいで、非常に豊かで広いんですよね。

ある意味、日本の八百万神(やおろずのかみ)といった概念に非常に近い。

現代のスピリチュアルな世界においては、大いなる御力、すなわち、この宇宙全体を司っておられるグレート・スピリットの存在(いわゆる「サムシング・グレート」)を言うことも多いのですが、とにかく、様々な聖なる世界の方々が様々にご登場なさる、非常に豊かな世界でもあるのです。

・・・

そういう意味で、わたくしは、スピリチュアル・マスターとしてのイエス様を信じているわけなのですが、

スピリチュアリストとしての生き方のお手本とさせていただいているのは、やはり、かのアイリーン・キャディ女史、なのですね。

祈りに基づき、内なる神と共に激動の人生を駆け抜けてゆかれたアイリーンさん(とはいえ、彼女は89歳というご長寿で天命を全うされました)の生き方は、とても厳しいものでもありましたが、

わたくしは、尊敬するスピリチュアリストとして、まずいちばんに彼女を挙げたい。

だから、わたくしも彼女のように、とにかく内なる神を信じておりますし、内在神がいらっしゃるということは、やはりわたくし達皆ひとりびとりは罪の子などではなく、神の子だ、そう思えてならないのです。

・・・

何やら今回の記事は、わたくしにとっての霊的世界の背景について、長々と綴ってまいりましたが、ま、とにかくはそういうこと、です!(笑) 

これからもわたくしは、神の子(としての人間)のひとりとして、内なる神、直観が導かれるところのことに基づいて、一生を歩んでまいる覚悟です。

現に、これまでの40数年の人生も、ずっとそうして生きてまいりましたからね。

これだけは誰がなんと言おうと、絶対に譲れない信条であります。

そして、人間は神の子である、ということについても、やはり、何があっても絶対に譲れません。

だって、わたくしにとってはそれが霊的真実だから。

だから、やはり、どんなにジョエル師のお説教を聞いても、いわゆるキリスト教に入信するという意味でのクリスチャンになることは一生ないと信じます。

・・・

ま、とにかくですね、わたくしはおひとりおひとり、「その方にとって の ご信仰」でいいと思うのですよ。

ピアニストのフジ子・ヘミングさんも、クリスチャンでいらっしゃるけれど、あの方が教会にゆかれるときというのは、ご自分が行きたいときに行って、おひとりでお祈りされる、という形なんですって。教会員が集われる形での礼拝等にはご参加なさらないのだとか。

わたくしもそういった形で、いつもゲリラ的に(笑)教会を訪れては、ひとり黙々とお祈りを重ねております。

わたくしはそれでよいと思うのです。

少なくとも、わたくし個人の信仰の形としては。

・・・

昔、この家を出る前、京都の教会を訪れるようになってから、その後、箱根に移ってからも、箱根の強羅(ごうら)にある教会によく通っておりましたし、

そして、その後も各地にある様々な教会に行ってはお祈りを捧げてまいりました。

その時々の懐かしい記憶は、今もわたくしの信仰生活を支える大切なよりどころとなっております。

以前、ボストンに飛んだときも、地元のカトリック教会の御(ご)ミサにひとり勝手に参列しましたし、

まぁ、何事もよい経験(?)です。

これからもわたくしなりの祈りを捧げさせていただければ、そう考えております。

・・・

とにかくね、わたくしはね、何か特定の宗教に属されていない方につきましては、どなたも、ご自分なりの信仰でよいと思うのです。

そしてね、どんな形でもいい、

とにかく聖なる方とのコネクションを保ち、日々祈りを捧げ、

そこから導き出されたところのことを勇気をもって実践してゆくのが、

いわゆる本当の意味でのスピリチュアルな生活の基礎なのではないか? と。

わたくしはそう思うわけです。

祈りの対象なくして、本当に価値あるスピリチュアルな生活というのは、成り立たないんじゃないかな?(って、あくまでも個人的には思うわけです (^^; )

近所のお地蔵さまでもいい、氏神さまでもいい、とにかく何らかの祈りの対象を持つことが必須と考えます。

そうして、聖なる世界とのコネクションをいただくことによって、はじめて、ひとは霊的に成長してゆけるものなのではないか? と。

ちっぽけな己の枠を越えて、霊的にどこまでもよりよく成長してゆくためにも、自らを上回る大きな、目に見えないご存在、聖なる方との繋がりはやはり必要なのではないでしょうか?

・・・

どんな形ででもいい、一旦霊性の世界に足を踏み入れたが最後、

あとは勝手にそちらの世界でどんどん導かれてゆくこととなり、

その方にとっての霊的な生活が始まってゆきます。

しかし、それがそれなりのスタイルに落ち着くまでには、一定の時間がかかるでしょうし、

ある日突然途中で方向が変わることもあるでしょう。

でも、どんな形での信仰を持つにせよ、

結局、究極的に目指すところのことは、利他の精神なんじゃないかな、

そう個人的には思います。

どんなに立派な信仰を持っていたしても、ひとりよがりになってはいけません。

信仰のある霊的な生活の中で学びとった成果を、

世の方々との繋がりの中で実践してゆかないと。

学んだことは実践してはじめて、その価値があるのですから。

そこのところだけは決して忘れてはならないと思います。

・・・

どうか皆様も、ご自分なりの聖なる世界の方々との結び付きを大切になさってくださいませね。

聖なる世界の方々は、きっと貴女を優しく導き、励まし、育ててくださるはずです。

そして、そうした結び付きがあることによって、どれほど人生が深く大きくなってゆくこと
か。

これは、信仰を持つ方とそうでない方との間には、大きな差が生じてくると考えるゆえんです。

どうか、皆様おひとりおひとりに丁度見合った素晴らしい霊的なご縁がありますように。

そう心からお祈りして、この記事を終わりたいと思います。

璃い 拝

広告