この世の全ては二つの相反するもの(グレーゾーンを含めて)で成り立っている

a0001 008777わたくしは、ことのほか聖なるものが好きな人間です。
そんなわたくしは、幼い頃から、まるでアイドルに憧れるみたいに、仏教の尼さんや、カトリックのシスターにやたら憧れておりました(笑)
今でも、教会のあの聖なる美しい空間が大好きで、ずっと居たいと思ってしまうくらいです。

それくらい聖なるものが大好きで、自らもそうしたものにしっかりと繋がっていたい、と思う一方で、わたくしは、ひととして最もいけない、汚らわしいとされるようなことにまで思いが至る人間です。
自らの醜い、汚れた、大変恐ろしい思いについては、これまで何度もわたくし自身くるしめられてまいりました。
聖なるものに接するときの高揚感とはまるで違い、そうした、ひととして最悪の思いにどっぷりつかっているようなときは、もう、わたくしの存在、その全てがまるで壊れそうなほど、それはそれは激しいもので、だから、ずっと身体の中が「空焚き状態」で、膵臓や胃、食道、時には甲状腺のあたりまで、おかしくなってしまうのだと思います。

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でも、わたくしは――、こうした、自らの邪悪な部分についてお話しすることは、本当に恥ずかしいことではありますが、でも、そうした自らの部分を否定するつもりはありません。
なぜなら、わたくしは神ではなく人間であり、そうした最も醜いとされる感情を抱くことも、また「あり」だと思うから。

だから、そうした思いを極端な行動へと発展させることは理性で抑えてはおりますが、でも、そうした思いを心の内に抱いていることについては、くるしいながらも、仕方のないことだと思っております。
そんなふうな感情を抱いても仕方がない事情があるから。
だから、ある意味、思うだけならよし、と思っております。

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よく、スピリチュアルな世界に足を踏み入れた方々というのは、大抵、まず、願望実現のレヴェルや、自己探求の領域(過去世について調べたりするなど)をされるのですよね。

そうした、不思議な世界をエンターテイメントとして「楽しんで」おられるうちはまだよいのです。
昨日の毎日新聞の朝刊には、かつて、あの清少納言もお寺参りなどをイヴェントとして楽しんでいたと書いてありましたし。
今の所謂「パワースポット巡り」もそうですよね。

少し前までのわたくしは、そうしたエンターテイメント的な、所謂「現代日本のスピリチュアルな文化」を、ことごとく否定しておりました。
「そんな甘いもんや、おへんで!」と。

霊的世界の厳しさ、そして、霊的感性が豊かすぎるがゆえのくるしみをしょっちゅう味わってきた自分としては、こうした世界をエンターテイメント的に扱うことがどうしても許せなかったのです。

でも、最近はそこらへんもゆるーくなってきたかな(笑)
ま、江戸時代のお伊勢参りだって、一生に一度あるかないかの大きな楽しみだったみたいですし。

神社さんへのお参りも、正装して、基本ひとりで、厳粛に参拝すべし、というわたくしの主張は(笑)、ごくごく世間一般の方々には、それほど関係ないこと、なのかもしれません。
世の多くの方々は、エンターテイメント的に、スピリチュアルな文化を上手に自らの生活に取り入れてゆかれたら、それでよいのかもしれません。

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けれど、けれど、です。

一度、どんな形ででもスピリチュアルな世界に足を踏み入れたなら、だんだん、霊的に成長をしてゆかざるを得なくなります。

これは、正しく言えば、この世で生きていらっしゃる方は皆、霊的成長が求められるのであり、特にスピ文化に親しまずとも、自然とやってゆくこと、なのですけれどもね。

でも、自ら意識して、そうした世界に親しみ続けてゆくなら、嫌でも、そのスピードは加速し、その密度はより大きくなり、学びの深さはより深くなってゆきます。

ま、そこで、なんとなく嫌になって、スピ文化との接点を徐々になくしてゆかれる方もいらっしゃるかもしれませんが。

でも、とにかく、一度こうした世界に足を踏み入れたなら、大抵の場合、それまでとはまるで違った密度で、現実世界と霊的世界を生きてゆかざるをなってくるのですよね。

そうなってくると、だんだん、エンターテイメント的なスピだけではやってゆけなくなってゆきます。

そこからが、本当の意味での「スピリチュアルな生き方」が始まるのかもしれません。

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そうして、自らの霊的探求をどんどん深めてゆかれますと、大抵ぶち当たるのが、聖と邪の葛藤ではないかと思います。

聖なるものだけに親しんでいるときは、とっても心地よくて、ありがたくて、幸せで、心がとっても、こう、何て言うか、満たされるんですよね。

それは、所謂、天のエネルギー、愛のエネルギーに満たされてゆくから、なのですが、かなしいかな、この現実世界では、それとは反対のものも多く溢れている。
あるいは、白と黒の中間、グレーゾーンのものも非常に多いです。

そうしたことに改めて気づいたとき、聖なるものを志向し、探求してゆかれる方にとっては、この世のグレー、あるいは黒いものがだんだん許せなくなってきて、そうしたものをなんとかせねば! と思われることも多い。
そうなってくると、だんだん、この世で生きてゆくのがつらくなってくるわけです。

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自らの外にあるものだけでもそんなふうになってしまうのに、ましてや、自らの内にどす黒い、ネガティブなものがあると、それも、ものすごくくるしくなってしまうのですよね。

自分を責めたり、揺るせなくなってしまったりする。

そうなってくると、もともとの天の愛のエネルギーというよりも、正しいか間違いか、の裁きのエネルギーが増えてしまって、どんどん、本来の聖なる道から離れていってしまうわけです。

そうなると、白と黒の2パターンの世界が色濃くなってきたりして。

ますます自分の居場所がなくなってしまったり。

そんなわけで、聖なるものを追求してゆくのも、なかなか簡単なことではなかったりします。

・・・

でも、でも、なんです。

わたくしは、この世で生きている以上、人間である以上、聖ものも邪悪なものもあっても仕方ない、そう思っております。

キリスト教では、いつか御国が来る、と言われています。
いずれ、裁きが下り、神の国がこの世において実現されると。

でも、もしかしたら、それは永遠にないかもしれない、と、わたくし個人的には思います。

だって、有史以来、人間は戦争を繰り返し、貧富の差はいつもあり、富めるものと貧しいものはつねに存在し続けてきましたからね。

どんなに医療が発達しても、次から次に、得たいの知れない病気が出てきて、医療も完璧ではありません。

いつまで経っても、ひとは同じようなことでくるしみ、悩み、迷い、たたかい、引き裂かれてしまうのかもしれません。

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聖なるものと邪なるもの、それがあるのがこの世の中、なら、自らの中に、そうした二つの相反するものがあっても当たり前。
というか、それがごくごく自然なこと、だと思うのです。

だからといって、何でも欲望のままに突っ走ってはいけませんが。
でも、そうした二つのもの(グレーゾーンのものも含め)が存在すること自体は、やはり認めてゆかないと、と思うのです。

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その上で、その上で、なんです。

そうした二つの相反するものがあるこの世において、どれだけ天に在るかの如く生きてゆけるか、が、わたくし達には問われているのだと、わたくしは思います。

誤解を恐れずに言えば、例えば、現代の日本社会では、ものすごーく豊かな暮らしをしておられる方もいらっしゃれば、住むところもなく、食べるものにさえ事欠いていらっしゃる方も存在しておられますよね。

でも、たとえ、もし、わたくしが国家の最高権力者となって、そうした恵まれない境遇にいらっしゃる方々に、例えば、沢山のお金をお渡ししたとしても、それでそうした方々が救われるか? と言ったら、一時的にはよくなるかもしれないけれど、もしかしたら、当事者さんが、自らの人生をよくしてゆこうというお気持ちをとうになくしていらっしゃって、また路上生活に戻られることだってあるかもしれない。
あるいは、お金をお渡ししたとしても、それをギャンブルや、何かよくないことに使ってしまわれて、あっという間になくなってしまうかもしれない。

要は、よかれと思ってやったり、これぞ救済策だ! と思って実行しても、全てが完璧に整ってゆく、天国のように全てが完璧になってゆく、ってことはありえないんですよ。

東洋思想ではよく「陰」と「陽」が語られますが、まさに、そう。
どちらもあるのがこの世の中、なんです。

聖なるものがいいからといって、そうした正しい、聖なるもの、イコール、「陽」でこの世が満ち満ちたら、では、「陰」はどこにゆけばよいのでしょうか?

つねに「陰」と「陽」、そのバランスがあって、初めて、この世は成り立つのだと思います。
だから、いくら「陽」がよいからといって、「陽」だけでこの世を満たすことなど、無理なのですね。

・・・

それは個人レヴェルでも同じことで、例えば、癒しを進めていって、自らの中にあるネガティブなものを解放していっても、それはきっと永遠にはなくならない、とわたくしは思います。

それが全部なくなったときは、この世を去るときではないでしょうか?

たとえ自らの内に邪悪なものがあったとしても、あくまでもそれも「わたし」という人間を構成する一部分、です。

自らを構成する一部分をいきなり、ごっそり取り除いたら、バランスを崩すのは言うまでもないこと。

ですから、たとえ、邪悪なものであろうと、それも「わたし」という人間を構成する大切な一部分なのですね。

だから、たとえ、そうしたよくないもの、ネガティブなものが、己の内にあろうとも、敢えて、それらを否定せず、上手になだめすかし、己の中で徐々に昇華してゆくことが大事なのではないでしょうか?

・・・

この世に御国は永遠に来ないかもしれません、と、先程わたくしは書きました。

真実のところは、全ては神のみぞ知る、だと思っております。

もし、そうだとしても、わたくし達は、皆、この宇宙船・地球号に束の間滞在し、
やがて時が来れば、次の世界へと旅立ってゆく存在なのですから、

せめて、この地球号に乗せていただいている間は、精一杯、ここでの時間と経験を楽しみ、
そして、また、自分よりも後に、この地球号にやってくる方々のために、
少しでも天の御光、天のよきものをここに残してゆけるよう、
言わば、「種を蒔き、水をやり、芽を育て、木々の緑を増やしてゆく」よりほかないのだと、わたくしは思います。

・・・

何はともあれ、どんなにどす黒いものを抱えておられるのだとしても、ご自分の中のそうしたものをまるまる否定することはなさらないでくださいね。

どんな醜い感情も、それなりの原因があって起こるのでしょうから。

ただ、そうした思いを何らかの具体的な行動に反映してゆくときは、自律と自制が求められます。

程度の差こそあれ、どこまでそうしたものを実際の行動に移すかは、よくよく、理性を踏まえて、ご検討なさってください。

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以上、今回は、この世における、そして、また、自らの内にある、「陰」と「陽」、善と悪、聖なるものと邪なるものについてのお話でした。

そうは言っても、出来るだけ、貴女の心の中が、天のよきもので満たされてゆきますよう、心からお祈りしておりますね。

愛をこめて。

God bless you!

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